私は、原作未読のままアニメ版を鑑賞しました。
その感想は、言葉にしたくないくらい不快なものでした。
ただ、そうは言っても、何かが引っかかったんですよね。
もしかしたら、これはアニメ化の問題なんじゃないか。
というわけで、アニメを観終わってから、原作の漫画を読んでみました。
そして、納得しました。
原作を読んでも、結末やプロットに関する不満は解消されずに残りましたが、少なくとも不快だった部分は解消されました。
私が不快に感じたポイントは、アニメ化によって生じたもののようです。
原作はコミックス7巻分程度ですので、ある程度エピソードを絞り込んで再構成すれば劇場版のサイズで収めることは十分可能な分量です。
自主制作映画のエピソードをカットしてしまうのはアリだったと思いますし、そもそもエピソードの再構成には特に問題は感じませんでした。
問題に感じたのは、登場人物の行動原理が全く伝わってこなかったことです。
登場人物の人格の肉付け、人間関係はよく設計されていて素晴らしいです。
しかし、静止画と動画では根本的に設計思想が異なるはずです。
漫画を読む時間感覚とアニメを観る時間感覚は違います。
その調整が、全然なされていないように感じました。
別に、冒頭のいじめシーンが観てて不快とか、障害者が可愛すぎて非現実的だとか、そういうよくある批判、短絡的な問題点は気になりませんでした。
まぁ、気にならないと言いながら、原作読んだ結果、原作の方が良いなとは思いましたが。
ともかく、何が問題かと言いますと、アニメ化に際して言葉による説明を省略しすぎています。
もちろん、せっかく映像化するんですから、言葉を語って聞かせるより行動を見せる方に重点を置くのは当然だと思います。
でもね、敢えて言いますが、私のような健常者には障害者の気持ちはわかりません。
だから、障害者の気持ちにもう少し歩み寄れる「間」が必要だったと思います。
漫画という媒体では、読み進めるスピードは、当然自分でコントロールできます。
なので、ほんの1カットでも読者に立ち止まって考えて欲しいポイントを絵で印象付けることができれば、読者は立ち止まって「間」を取って考えます。
ですが、アニメなどの映像作品ですと、強制的に時間は流れます。
「間」は制作者が与えない限り生まれません。
もう少しはっきり言います。
硝子ちゃんが自殺に思い至る心理が、アニメを漫然と観ているだけでは全く理解できませんでした。
いや、心理を積極的に汲み取る努力をしながら観ていればわかったのかもしれませんが、そんな見方を視聴者に強要するのは作品としては致命的な欠陥を抱えています。
事後にすら、その心理は描かれません。
もしかしたら「硝子ちゃんの本当の気持ちに誰も気づくことができなかった」みたいなことを表現したかったのかもしれないですが、そういう演出効果も感じませんでした。
そういう狙いなら、「誰か気づいてやれよ」と観客に感じさせておく必要がありますよね。
ただただ唐突で置いてけぼりでした。
最大の原因は、原作できちんと言葉で説明されていた些細だけれど重要ないくつかの心理の説明をアニメでは省略したことだと思います。
小学生の硝子ちゃんは何もわかっていないわけではなく実は起きていることを正しく理解していたこととか、悪気はないものの母親の身勝手で振り回されて特に障害者への配慮のない小学校に通学させられていたこととか、それを担任の先生もあからさまに不愉快に感じていたこととか、健気に振舞っていた小学生の硝子ちゃんもたった一度だけ妹に「死にたい」と漏らしていたこととか、そういう欠くべからざる情報が、原作にはちゃんとありました。
映像作品において、わざわざ言葉を使って語るというのは、確かに無粋な一面はあると思います。
でも、言葉にしないとわからないこともあります。
この作品は「理解し合えない」というのも小さなテーマだったと思いますが、じゃあ、本当に観てもわからないものを見せて作品になるのかというと、それは違うと思います。
「わかって欲しい」という願望で作品を作らないで欲しいです。
はっきりとわかるように情報を与えて作るべきです。
どうしても、映像作品で多くの言葉を語りたくないのであれば、視聴者に制作者の意図を理解させるための、漫画には不要でもアニメには必要なシーンを、強調的に差し込むべきだった気がします。
妹が動物の死骸の写真ばっかり撮ってることの理由すら、アニメ版では相当注意してないとわからないんですよね。
基本的に、観る者に努力を要求する作品は、私は良い作品だとは思いません。
そういう作品も認めるという価値観もありますので、それだけで完成度の評価は下げませんが、好き嫌いで言えば、私は「嫌い」です。
メッセージ性の強い映像作品というのは、そのメッセージが強ければ強いほど、より厳しい批評の目に晒されますので、正しく伝える演出を徹底して選択する責任を負うと思います。
私が不愉快に感じたのは、演出が自己満足の域を出ているように思えなかったからです。
テーマが重いので、それを忠実に再現して描写すれば、ある程度の心の揺さぶりを生むことはできますが、なんかそこで甘えて終わってしまっていたように感じました。
「重いテーマで良い作品作りましたよ」という制作者の自己満足が見え隠れしていて、そのわりにちゃんと演出が最後までやり遂げられていない感じがして、それが不快でした。
原作は、良い作品でした。
あるいは、この作品に、「感動ポルノ」なんていう的外れなレッテルを貼って批判する方もおられるようなのでひとこと言っておきたいですが、それは本当に違うと思います。
別に、「障害者」をダシに使っているようには見えません。
むしろ、作中での「障害者」の扱いは、極めて中立的だったと思いますし、そこは逆に評価したいです。
私の不満を他に挙げるとすると、強いて言うなら、結末については若干不満があります。
そもそも、障害者が自分をいじめていた人を好きになるというのが、結構無理矢理っぽい設定だと思いますが、まあ、人の心なんてわかりませんので、ふとしたひょうしに何かが裏返しになってそうなることもあるだろうと、その設定は受け入れたとします。
そんな無理な設定を受け入れさせておいて、結末としては、はたして将也と硝子が結ばれるのかというと、結構微妙なところで終わります。
恋愛要素を入れないなら、将也に「生きるのを手伝って欲しい」みたいな告白まがいのセリフを吐かせるのは、物語として無責任な気がします。
普通なら、勇気を出して抱き締めるはずのシーンで、二人の距離は離れたまま、何も起きません。
そういうシャイな日本人にありがちな極めて現実的なお話にしたかったのなら、硝子ちゃんはもっと現実的な外見で(ブサイクに)描くべきだったと思います。
結末に対する無責任さは感じました。
テーマの重さは全然気になりませんでした。
私は、普段から別に障害者だろうがなんだろうが、違うものは違うし同じものは同じというのは結構意識しています。
差別意識はまったくありませんが、違うものは違うというのは当事者に対してでもはっきり言うべきだ(相手にそれを受け入れる心理的な素地がある場合に限りますが)という意見は持っています。
なので、障害者をテーマにしたというだけでこの作品を評価することはありません。
それ以外の部分で、障害者と健常者の間での相互不理解、友達の定義、いじめとコミュニケーションの問題なんかを扱ってますので、そういう意味では評価しています。
あと、どうしても言っておきたい。
たぶん、この作品を観て感動して涙する人ってたくさんいると思うんです。
それは、感受性が豊かな証で、全然良いことだと思います。
私だって、不快に思いながらも作品の持つ勢い、力によって押し切られて感動した場面はいくつもあります。
でも、感動にはいろんな種類があるということは、知っておいて欲しいです。
この作品がもたらす感動は、皆さんにとってはどんな種類のものだったか。
いま一度、「言葉にして」考えてみて欲しいと思います。
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